1997-12-03 第141回国会 衆議院 文教委員会高等教育に関する小委員会 第1号
開放制になりましたのは、戦前戦中は師範学校卒業生が主流で、教員がステレオタイプ化したという反省からであります。教員養成を目的とする学部・大学と一般大学で、さまざまな資質、能力を持った教員を養成しよう、そういうふうに構想したわけです。もちろん、両者とも教員としての高い専門性が要求されていることに変わりはありません。
開放制になりましたのは、戦前戦中は師範学校卒業生が主流で、教員がステレオタイプ化したという反省からであります。教員養成を目的とする学部・大学と一般大学で、さまざまな資質、能力を持った教員を養成しよう、そういうふうに構想したわけです。もちろん、両者とも教員としての高い専門性が要求されていることに変わりはありません。
また、私の教職経験についてお触れになりましたが、先輩、同僚の師範学校卒業の先生方には今でも尊敬しておる先生がたくさんいらっしゃいます。(拍手) 〔国務大臣中島源太郎君登壇〕
したがって、従来の師範学校卒業者が義務教育の学校の教員として在学している方々の数というのは、今日では数としてもきわめて少なくなってきておるわけでございまして、いわば原則的な四年制の大学を卒業した教員が教員構成の中でも大きい比率を占めてきているわけでございます。
このような国民教育重視の精神はずっと受け継がれておりまして、師範学校卒業生に兵役の猶予あるいは軽減をしたり、学費を支給したりするなどの措置がとられ、これらは師範学校に地方の優秀な学生が集まることになった柱となっていると考えられます。 わが国が東洋の一角にあって、唯一の先進国となりましたのは、国民全体の教育水準が高く、文化を担う層が厚いことによると言われております。
昔の師範学校卒業生は非常に実技的に、たとえば音楽なんかよくできたんですね。それがいまの人はどうもそれができない。実技的な面は非常に弱いんです。そういうところはしっかりやるというふうな点は学ばなきゃならぬわけでございます。しかし、いまの世間の風潮から言って、師範学校のような人はできゃしませんよ、やろうと思っても、時代が違いますから。
特にこの自主性、創造性に乏しい、視野の狭い教員になると、師範学校卒業生はそうであると、こういう批判があったわけですね。私もその師範学校卒業生ですから、どうも自主性に乏しく、創造性もなく、そして視野が狭いのかなと、こう思ったりするわけですが、そういう反省の中から生まれまして、新しいこの教員養成の制度というものが出てきているわけですね。
師範学校卒業生で恩給を取っておる。あまり高い恩給でもないわけです。で、老齢福祉年金を併給をするときの制限にあう。そういう点から、彼、いろいろなことを研究をされて裁判に持っていったけれども、これは憲法違反ではないという趣旨の判決が出た。
教員と、それから一般公務員の給与の比較でございますが、先生御指摘のように、十七年目に、上級職の乙というものの線を引っぱりますと逆転をするということでございますが、その理由につきましては、これは人事院からお聞き取りいただいたほうがよろしいのじゃないかと私は思いますけれども、私どもが伺っているところによりますと、大学卒の方々の給与というのは、これは不均衡にはなっておらない、しかしそれ以前の、いわゆる師範学校卒業
教員が教育の実質を左右するという話は、先ほどの専門職のことに関係すると思いますが、左右するということばの意味、専門職についてはどうもお二人のやりとりを聞いておりましたけれども、私はちょっと専門職というのはどういうことかと、大臣の考えでは、大学出てから初めて何か専門職、戦前の場合には師範学校のあれだったのだから専門職でないということもあるわけですけれども、日本の教育史の中を見ると、師範学校卒業生だけであれば
師範学校卒業者ですから、まあ古い同窓会でございましょうけれども、とたんにこの話が中心になってしまった。それで、私は乏しきを憂えず、ひとしからざるを憂える、こういう結びになっているわけでありますけれども、実際御本人の身になってみれば、皆さんは、さっき私も指摘いたしましたように、是正したではないかというけれども、自分のことですから、自分で計算ができるのですからね。
と申しますのは、これができたときには旧師範学校卒業生に仮免許を与えて、そうして単位をとらせて、講習等でもってこれを免許にかえていったという者の既得権といいましょうか、そういう問題があるからやむを得ない面は認めるのです。
君は、茨城県師範学校、東京高等師範学校卒業後、郷里の小学校訓導、島根県師範学校教諭を歴任するとともに、さらに現在の東京教育大学の前身である東京文理科大学に進み、昭和十五年同大学卒業後は中国に渡り、北京日本中学校教諭、北京工業大学教授を奉職、その上昭和二十年祖国日本帰還後は茨城県立境高校教諭を勤務するなど、戦前戦後を通じ、まさに君は教育一筋の道を歩まれたのであります。
それから二つ目は、これもやはり賃金の歴史から言うと、昔の師範学校卒業者は、同じ中等学校令ではあったけれども、一般の中学校卒業者より十円高く採用しておったですね。大学卒業者も同じです。ですから教員の給与については一般公務員よりも戦前であっても高かった、しかし、これが昭和二十年の敗戦と同時に、いまのベース賃金になってからどれもこれも一緒になったわけです。
発言を求めて、関連質問を求められたから、私は何をおっしゃるのかと思っておったら、反対意見ではなくて、私も長い間の教員の生活で、私自身も、りっぱな教師であるのは師範学校卒業生より、むしろそうでない大学を出た先生のほうがあれだという、そういう長い経験をお持ちの、政治家であり教育者である笹森先生から、そういうことを私は聞いて非常に力強く思った。
もちろん師範学校に対するいろいろな見方がありますけれども、師範学校卒業生に対しては、国民の二大義務ともいうべき兵役の義務も五カ月短期現役兵ということで免除しておった。これは大きな優遇であるわけです。いまから見ればとうてい考えられぬような優遇をしておった。あるいは初任給におきましても各県ばらばらでありましたが、米が一俵七円二、三十銭するときに初任給が五十円内外であった。
原島君は、明治四十二年東京都に生まれ、昭和四年東京府立青山師範学校卒業後は、永年にわたり、数多くの子弟の訓育のため、熱誠をささげられたのでありますが、その間、昭和十五年創価学会に入信、幾多の辛酸をなめられました。昭和三十年には、同志の方々と政界進出を目ざされ、東京都大田区議会議員に当選、次いで昭和三十四年には、本院議員として議席を得られたのであります。
それから例の青年師範学校、それから師範学校卒業生の給与差、こういうものが当事者が納得できるように学歴の是正をはかるべきである、質疑応答もし、決議もしたわけですね。それと、これは委員会の質疑の段階に出しませんでしたけれども、個人的には私は文部省の担当者に申し上げておきましたが、すなわち昔、師範学校専攻科というのがあった。専攻科を出た人は専攻科に行かなかった人よりは退職金が少ない。
具体的に御指摘になられましたいろいろな諸手当との関係、それからたびたび内閣委員会等でもお話のございました学歴是正に関連しまして、旧制の師範学校の卒業生の給与の問題、それから師範学校卒業後、大学等へ行きまして高い教員免許状を持った人の処遇、こういう点につきましては人事院の事務当一局とも十分相談いたしておりますが、まだ具体的に、この案でいこうという結論まで至っておりませんが、両方ともたびたび申しましたように
私どもも勤めたときに、男の先生が五十円、女は四十五円、その中で師範学校卒業した者は四十五円だけれども、検定で卒業した者は四十二円であるとか、三円の差をつけられている。今度は昇給するときに、一円、一円五十銭と上げるのです。一円と一円五十銭の差、五十銭の差が大へんだったわけです。
そうして非常に押しつけられた免許制度、不法なものをだんだんよくして現場に出していく、それには現場の意見を聞こうではないか、たくさんの現場の人たちから意見を取って、それで中学校については一科目しか出さないのを二科目にしようじゃないか、たとえば師範学校卒業したものについては。そういうふうにこまかい問題についてずいぶん改正されていったわけです。
これで計算をいたしますと、三十七年間勤めて五十六才の旧師範学校卒業生で、本俸四万八千円の校長がやめた場合においては、普通に平穏にやめた場合には二百三十五万三千二百十二円でありますが、日教組の闘争によって首を切られたという場合、つまり一部の校長が勤務評定提出を拒否して首になった場合には、実に六百十八万四千七百五十二円、こういうような三倍くらいの巨額の金が見舞金というか、この特別救援金として支給せられる
しかし、同じ修学年数であり、しかも、失礼ながら、青年学校より優秀な人が入学しておった師範学校卒業者に対しては調整が行なわれなかったので、昭和三十二年三月三十一日まで、同じ修学年限で、同じ給与を受けておった教育公務員の中に、その間に一号の差ができた。